マレ地区の魅力

Intérieur de l'église Saint Paul

フィリップ・オーギュスト王により1190年から1220年に渡り建設された城壁。その城壁に囲まれた部分が、パリ市内のマレ地区の始まりでした。

城壁は、遺跡の現存するジャルダン・サン・ポール通りからロズィエ通りへ連なり、サン・ジェルヴェ病院通りからフラン・ブルジョワ通り、そしてサン・テニャン館(ユダヤ歴史博物館)まで続いています。

サン・ポール通り、ロワ・ドゥ・シシリー通り、ヴィエイユ・デュ・タンプル通り、そしてタンプル通りは当時から残る古い道です。

ブラン・マントー修道院、サント・クロワ・ドゥ・ラ・ブルトヌリー修道院、カルメス・ビエット修道院とユダヤ人集落は、マレの非居住地区に置かれました。そして城壁の外部には、テンプル騎士団が要塞を築きました。

マレ地区の運命はその後、歴代の王たちのパリ改造計画に翻弄されます。

シャルル5世(1338年-1380年)は2世紀後、サン・ポール教会から500メートルの距離の湿地(水没しない限界の場所)にバスティーユ牢獄を建造。さらに、バスティーユからボーマルシェ大通り、フィーユ・デュ・カルヴェール大通り、タンプル通りに達する新たな城壁を築きます。この城壁は砦である一方、セーヌ川氾濫時の堤防の役割も担うものでした。以後、干拓された土地には自由に建設が行われるようになりました。

シャルル5世はセーヌ川とサン・タントワーヌ通りの間に位置するサン・ポル館に住み、のちには道を挟み反対側のトゥルネル館に王族が居住します。さらに、王室に続けと宮廷人らがこぞって移り住み、マレ地区は最初の黄金時代を迎えました。サンス館にわずかに残された壁面は、中世時代の華やかなマレ地区の様子を語る、希少な証人です。


大いなる世紀

アンリ4世即位からルイ14世の逝去までの約1世紀間(17世紀)、マレ地区は再び、選ばれた地となります。

しかしそれより前の1559年、サン・タントワーヌ通りで行われた騎馬槍試合で、当時の王であるアンリ2世が右目を貫く致命傷を負います(対戦相手はモンゴムリー騎兵隊長)。王は数日後にトゥルネル館で死去、それが原因で王家一族はマレ地区を去り、ルーヴル地区やロワール地方の城へ移り住みます。不吉とされたトゥルネル館は解体され、王室との蜜月が途絶えました。「ヴォージュ広場を作ったのは、モンゴムリーの槍の一撃だ」とヴィクトール・ユゴーが書いた、その事故です。

マレ地区の2度目の黄金時代は、アンリ4世がトゥルネル館の跡地に「王の広場(1800年に「ヴォージュ広場」と改名)」を作った時から始まります。

ルイ8世の治世のもと、マレ地区の人気はとどまることを知らず、パリに移住しようという者は皆、マレ地区を目指しました。

スュリー館、マイエンヌ館、サン・ポール・サン・ルイ教会を擁するサン・タントワーヌ通りは、パリ中で最も粋で洒落た界隈とされました。